08弥生 延岡北可愛岳登山     トップページへ


  3/6日に又年を重ね、相応にというかここ最近歴史に興味を持ち出し、日本史、とりわけ戦国時代と昔は余り興味が無かった幕末から明治維新が書かれた本を図書館でよく借りています。まだつたない読書量ですがざっと感じたのは、歴史での表舞台は殆ど東方からの勢力に支配されているなぁという事。僕自身関西に住んでいるので(近畿って歴史の強者が出ませんね)源氏や尾張勢にはあんまり感情移入できません。どのジャンルでも西が活躍するのは打ち上げ花火のように僅かな期間。将棋で言ったら羽生と谷川みたいな。これは何でなんだろう、やはり東には風水的な力が備わっているのかなどど考えてしまいます。さてそんな一敗地に塗れる事の多い西に有って、確固たる地位を確保してきた島津・薩摩、今回はその代表的な人物「西郷隆盛」由来を辿り、宮崎県北部の「可愛岳」を登ってみました。

 3/15日の午後三時、延岡市北部の北川町俵野に有る西郷隆盛宿陣跡資料館着、200円×2人払ってこじんまりした資料館の中へ、西南戦争の資料や当時の古民具等を眺め、西郷さんが軍服を焼いた場所や人形で作られた薩軍幹部の軍議の模様を音声案内で聴く。床の間を背に「西郷隆盛」が鎮座し「桐野利秋」「村田新八」「篠原国幹」等が脇を固めている。熊本田原坂の攻防で敗れた後は一端、人吉に陣を移すも、宮崎に入ってからは小林〜延岡と官軍に追われ敗走を重ね、この辺りでは勇猛を誇った薩軍も僅かな規模になっていたらしい。

 しかし、この場所から薩軍は圧倒的に勝る官軍の包囲網をくぐり抜け、平家の落ち延びた道と重なる宮崎の山間部を南下、鹿児島に帰還するのである。それはまさに関が原の戦いで敵だらけの中、決死の中央突破をはかって薩摩へ帰還した島津軍と重なるようであり、どちらも圧倒的不利の状況の中、目的を完遂したというところに痺れるのである。
 只、関が原では感服した家康が島津に恐れをなし、その後毛利方へ行ったような減封も行わず薩摩の国力は幕末にかけて脈々と受け継がれたが、日本の近代国家を開いた薩摩はその後衰退し、九州の主導権さえ福岡に奪われていくのである。


              
北川町 西郷隆盛宿陣跡資料館   烏帽子岳(岩)より日向灘を望む   可愛岳山頂 


 とまぁ最近本から得た知識はさておき、可愛岳(えのだけ)である。この山に登ろうと考えたのは、先の本の記述に拠るものと、最近手にした、ウオーキングマップ九州(公立学校共済組合発行)の宮崎編に載っていたからである。可愛岳(15500歩、170分、9km)、いやぁ舐めてました。標高727mとはいえ殆ど麗から上るし、ウオーキングどころか上りの多い歯ごたえのある山でした。そんな山を午後三時半から登り始め、頂上には五時四十分頃に着き、下山中に日がどっぷりと暮れ、携帯電話の灯りを頼りに麗までたどり着いたのが午後10時過ぎ、道を見失い山中でビバークが常に頭から離れなかった山行でした。 

 午後3:20頃、西郷資料館右横から瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)御陵を通り可愛岳登山口へ、中津大四郎自刃の地の石碑や薩軍無名兵士の墓を右手に見ながら陰平〜三番曳岩と登り、尾根に漸く出たかなと思ったら二本杉水場だった。しかし水場はどこにも見当たらずおまけに車でも通れそうな無舗装のしっかりした道が有り、ここまでバイクで来れたんじゃないかと少しがっかりする。一休みしていると黒い犬が一匹向こうの方で様子をうかがっている、元飼い犬みたいに見えるが、こんな山の中で寂しかろ。左右の道の真ん中に細々と登山道があるので時間的に迷ったがここまで来たから山頂を目指すことにする(引き返すべきだった)
 
 木々に囲まれた登山道をあくせく上り、烏帽子岳(588m)着午後4:50分、ここは何百メートルも切れた岩場で眺望が良く広々としており日向灘や延岡が綺麗に見える。ここでも小休止。ここから、西南戦争時の砦が築かれていたとされる前屋敷(薩軍の脱出に備えて官軍が築いていたらしいがこんな細い山道をという感じだ)〜岩の間を縫うように歩く鉢岩を越え頂上の可愛岳に到着した時は午後5:40分、そして何時もの癖でせっかく来たからと6:00近くまで休憩し、下山に掛かったものの、鉢岩群を越えて前屋敷の手前あたりで、薄暮が闇に変わった。

 「しまった!」山の中で日が暮れる事は恐ろしい。今までも山中で夜を明かした事はあるが、それはテントだったり避難小屋だったり何れも暮れるまでに行動は切り上げていたが、今回は連れがいて、おまけにテントはおろか、ツェルトもなし、そして小型リュックの中には食べ物のみ、ランプさえも持ちえてない始末。もともと余り視力のよくない連れは急な下り道で転び始め、心の中で冷や汗を掻く。
 それでも半月とはいえ三月の夜空は澄み切って所々で上空から月明かりが照らしてくれており、おかげで木の幹が薄っすらと見え、これが精神的にも大変助けられた。とはいえ、ランプが無いのは厳しく、携帯電話とデジタルカメラの液晶の心もとない灯りで連れの足元を照らしながら、かつ、道を見失わないようにゆっくりゆっくり下山する。それが結果的によかったのか、思ったよりも道を見失うことは無く、危なかったところは二ヵ所、鉢岩から前屋敷の間で登山道を見失いかけ、おかしいなと思ったその場所で連れを待たせ付近を散策、この時は連れが近くで木に巻きつけられたテープを見つけてくれて正しい道を発見。
 後は烏帽子岳〜二本杉水場の間で足裏が山柴を踏み始めて迷いに気が付き、ここでもやはりその場所から程遠くないところに標識を発見でき(進もうとしていた方向が山頂になっていてぞっとする)何れの場所でも焦りが増幅する直前で目的物がたまたま見つかり、助かった。
 二本杉水場まで降りてくると、気持ちはグッと楽になったが、ここから道がわかりやすくなったは云え陰平まで結構遠く、西郷資料館横に停めていたバイクまで辿り着いたのは午後10:00過ぎ、最後まで気の抜けない下山となった。 

 テープを木に巻きつけてくれた人、標識を設置してくれた人ありがとう。そしてあのお月さんは130年前にあの道を通って鹿児島まで生き延びた西郷さんの導きだったのかと都合よく解釈して締めます。
 


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