〜友情寄稿〜       第3回  「泣かないでアマテラス」 戻る   トップへ  

 

 アマテラスは古事記に登場する天岩戸に隠る日輪の神である。中島みゆきはこの物語をもとに、夜会と呼ばれるコンサートにおいて自らの天岩戸の物語を創造し、演じ、歌った。1992年のことだった。「泣かないでアマテラス」はこの夜会のために書き下ろされた曲の一つである。
 1997年のコンサートツアーで、中島みゆきは再び「泣かないでアマテラス」を歌う。そして語った。彼女が「泣かないで」と呼びかける「アマテラス」は世界中でいろんな理由で悲しんでいる女性を象徴していると。「泣かないでアマテラス」は悲しみに打ちひしがれている全女性への応援歌なのだ。

人を励ます時に私たちがよく用いる言い方を考えてみると、その人のしんどい状況をうち消そうとする表現が多いのではないだろうか。「くよくよしないで」とか「たいしたことないよ」とか。
ところが「泣かないでアマテラス」では違っている。


  
地上に悲しみが尽きる日は無くても  地上に憎しみが尽きる日は無くても

悲しみには終わりがない。消すこともできない。そこにあるものとして、まず受け止めなければならない。気休めの打ち消しは、悲しんでいる人を決して慰めないのだ。
では悲しみは乗り越えられない物なのか? その解決策はつぎのフレーズに示される。

それに優(まさ)る笑顔が  ひとつ多くあればいい

すごく簡単なので、ホッとする。一瞬「えっ、それだけでいいの?」と尋ねたくもなる。確かに悲しいことはなくならない。でも、うれしいことの数が悲しみよりひとつ多ければ、もう泣かなくてすむのだ。

また、励ます側は往々にがんばってしまうものである。「できることは何でもやってあげる」、「私がついてる」、「力になるよ」など、なんとかして、相手の役に立とう、力になろうと考えるものだ。
ところが、「泣かないでアマテラス」では違っている


私には何もない 与えうる何もない
君をただ笑わせて  負けるなと願うだけ


「私には何もない」のフレーズを初めて聴いたとき、正直言って悩んだ。開き直りじゃないか、とも思った。何かすべきだし、自分には何かできるはずだ、と信じたかった。自分が「無力」であることを認めるのは、ある種の敗北であるように感じたのだ。
でも、この歌を聴きながら、自分に何ができるのかを問い直してみたら、本当は「無力」であることに気づかされた。私は他人の悲しみを代わってあげられないし、取り除いてあげることもできない。ただ、がんばって、負けないで、と願いながらオロオロと側にいつづけることしかできない。
またこの歌は、それでかまわないと教えてくれた。相手のことがわればこそ、何もできないのだ。でも、応援している、側にいる、あなたはひとりじゃない、というのが、大きな励ましになる。それが、相手に深い悲しみの淵から、自らの力ではい上がろうとする力を与えるように思われる。

泣かないで 泣かないで 泣いて終わらないで

中島みゆきの高らかな歌声は、いつも私を励ましてくれる。そして、私自身が発信するメッセージの基本姿勢としてこの歌を座右の銘(?)に据えている。